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2011年5月18日 (水)

仕事帰りに歴史ポタ

最近定時で仕事を上がれる。

  

自転車通勤。

いつもは、やや郊外寄りの道が通勤路だが、今日は気紛れで街中寄りを帰った。

  

昔のお城は想像以上に敷地が大きい。

今の福井城のお堀は、いわゆる本丸の部分だけで、

元々は、複雑な形の堀が、更にその外側に4~5重にあった。

お城を中心にして、様々な位や関連職の住居などが順に広がっていたのだろうから

どこまでが城郭なのか私には良く判らないけれど、

本来あった一番外側のお堀は、南が当然足羽川。

西は今の片町通り辺り。

東はJRの線路を越えて荒川。

荒川のFM福井のとこに掛かる橋から桜通り方面へと

現在の、あの広い通りに沿って北へと堀が続き、

養浩館庭園や市立郷土歴史博物館の北側へと、ぐるりと囲む。

(博物館の辺りは発掘調査が行われて、復元されている。)

そして、更にその外側に、城下を守るための堀や土塁があり、

街道がこの『城下』を出入りする部分には門が設けられていました。

街道を南から福井へと来ると、九十九橋を渡って、照手門から城下へと入ります。

そして、城下町を通り、北の出入り口が加賀口御門。

    

前置きが長くなりましたが、

この 『 加賀口御門 』 から北進する旧北陸街道を辿って帰りました。

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外様大名のくせに大きかった加賀藩に対して、これでもかと警戒しまくった様で、

門の外には、更に三方を囲む濠があり、

ここを中心に東西に長く土塁と濠が築かれていたそうです。

名残の用水が流れています。

そんな由緒ある場所なのに、この立派な石碑の前はゴミステーションでした。

  

門跡から1Kmも行かない場所に、一里塚跡があります。

モータープールの隅っこに、石碑だけ。

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この先、数百メートル行くと枡形のようなクランクを経て、

その後は、お泉水通りに合流します。

  

更に北へ数百メートル進むと、

松本小学校前を過ぎて、西へとゆる~い斜めで離れていく典型的な旧道。

この先は住宅街を抜け、フェニックス通り・R416を横断して旧ピアまで続き、

ピア跡地の南縁をなめながら東へ向いて、

フェニックス通りの一本東側の住宅街の中を北進後、

高木辺りで再びフェニックス通りへと合流します。

  

ありがちな、旧道と新道が行ったりきたりするパターンではなくて、

お泉水通り、フェニックス通り、更にR416号とJRの大きな軌道が

右へ左へと好き放題に街道を切り刻んでいるので、

いちいち大通りを渡って行き来するのが面倒。

特に遺構や史跡らしきものも見当たらないので、

街道巡りの風情は全く無いエリアです。

  

で、街道が九頭竜川にぶつかると、そのものズバリ、地名が舟橋。

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橋のたもとに、

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四天王うんぬんと彫られた石碑が並んであったので、帰宅後調べたら

四天王家は、福井藩初代藩主の結城秀康がやってくるよりも以前から

この地に居て渡しや舟橋の管理をしており、

江戸期以降も代々世襲で、9代にわたって橋奉行を務めたそうです。

  

ちなみになんと、なぜか、

その初代は本能寺の変で信長を殺してしまった明智光秀の家臣で、

あの森蘭丸を討ち取ったという人物。(四王天又兵衛政実)

そんな四天王家が、どうして秀吉が治めた時代も途絶えずにいられたんでしょう?

それどころか、秀吉の従兄弟である青木秀以(大野城・北の庄城主を歴任)

にスカウトされて福井へやってきたそう。

きっと優秀な人材だったんでしょうね。

  

長くなりましたが・・・

  

この橋を渡ると、次の一里塚があった稲多の宿場。

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あまり、綺麗に整備されているとは言い難いですが・・・石碑などがいくつか。

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この先、稲多元町~下森田へかけて、道自体はとっても判り易い街道跡ですが、

べんがら格子やうだつの様な、そんな宿場の名残はありません。

住宅街に、古い商店が多いのが、ちょっぴりそれっぽいかな。

  

福井市は、戦争時の空襲、そして終戦僅か3年後には福井大震災、

更にその僅か1ヶ月後の豪雨で、足羽・九頭竜両河川での水害と、

3年間で3度も街が壊滅した土地。

震災時、福井平野の全壊率は60%を超えたそうです。

街道跡が綺麗に残っていないのも無理はありませんね。

そんなどん底から這い上がった街。

故に、福井のシンボルマークはフェニックス(不死鳥)なのです。

  

歴史ポタはここまで。

写真に撮って残すような収穫は少ししかありませんでしたが、

帰宅後の復習が勉強になりました。

  

九頭竜川沿いに、いつもの橋へと戻りながら、

最近、仕事を上がってから夕食までが我慢できなくて・・・

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帰宅しても夕食まで少し時間があるので、

子供に、「ゴハン前はおやつとかつまみ食いしちゃダメ!」って言ってる手前、

私が何か食べてると、「ずりぃー!」って子供達が騒いでグダグダになったり・・・。

一人で、風に吹かれながらの~んびり食べるのが、幸せ。

  

ちなみに、昨日も・・・。

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悪い習慣だなぁ。

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コメント

Fumiさん、おはようさんです♪
おっ歴史ポタいいっすねえ。
私の知らないことばかりで、
長いだけで無駄に生きていたかも(笑)
町中のゴミステーションは、
あちこちたらい回しでなかなか
良い場所がないんでしょうね。
結局、文化財の近くに(苦笑)

投稿: YAMA | 2011年5月18日 (水) 07時15分

こういった歴史探索路が福井市から北に向かってあったんですネ?
知りませんでした・・・
今度ぜひ詳しく場所を教えて下さいネ!

ちなみに、私の実家があった宝永は、
昭和の中頃まで「堀端」と呼ばれていて、
タクシーの運チャンに「堀端まで行って」と言うと、
通じた時代がありました

投稿: フレディ・M | 2011年5月18日 (水) 12時26分

YAMAさん、こんにちはぁ

原始時代のことなんて訳わからんですが、
僅か百年~数百年前の事だと、想像力を駆使して思いを馳せたり、
目の前の風景にも百年以上前の名残が見て取れたりして面白いです。^^

今回、私が事前に知っていたのは、大体の外堀の位置と、
加賀口の門跡と船橋に、石碑が『ある』ってコトだけでした。
走ってみて、あとは全て帰宅後の復習です。

稲多宿・舟橋に関してなどは、
更に古い時代には足羽七城の一つに数えられた勝虎城が舟橋近辺にあって、
この城をめぐる攻防の記述が太平記にでてくる・・とか
朝倉 VS 加賀一向一揆衆の大合戦があった場所・・等々、
四天王家の由緒についても・・・
この地の歴史は本当に奥深くて面白くて、
中々布団に入れませんでした(笑)

九十九橋より南、
木田~浅水~へと続く部分は、YAMAさんの守備範囲ですね

投稿: Fumi | 2011年5月18日 (水) 12時40分

フレディ・Mさん、おぉっ! 初めて聞きました。
面白い話ですね♪

宝永というと、一番外側のお堀の北東角辺り、
まさに堀の端っこ!
なるほど~『堀端』ですかぁ~
あ、ちなみに、城下から北陸道が出て行く場所が丁度その辺り、
お泉水通りの一本東の筋。
加賀口御門があったのは、松本通りからちょっと北へ入ったトコです。^^

フレディさん、町の子だったんですね

投稿: Fumi | 2011年5月18日 (水) 12時53分

自分も最近は定時は無理ですが19時前には自宅に帰っています(^-^o)
会社から自宅まで車で10分程度ですからジテツウも出来るんですが雨が嫌なのでね

ジテツウなら腹も減るし何か食べたくなるのも納得

そちらも旧街道があるんですね
一里塚の跡もあるんですね

ドンコを検索で見ていたらハゼ科の淡水魚で刺身は無理でも唐揚げは大丈夫らしいですね(^-^o)
ハゼは大好きなんです

投稿: マサヒ | 2011年5月18日 (水) 21時35分

マサヒさん!まだ食うつもりですか
淡水魚は寄生虫のリスクが高いですから、刺身はね・・・
って! だ・か・ら!食べませんって(笑)
既にペットよ。愛玩魚類。^^

晴れの日くらい、サローニで出勤しましょう。^^

こちらの街道は、やはり交通量の差(笑)か、
中山道のような立派なものではありません。
中山道が高速道路なら、
北陸道は国道か県道レベルかな?(^^;)
福井藩は、滋賀県境の栃の木峠から、石川県境の細呂木宿まで、
15箇所の宿場を設けていたそうです。
ボチボチと、調べてみたいです。^^

投稿: Fumi | 2011年5月18日 (水) 22時10分

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