基準は自分じゃない
これは、少し前に書きかけて、書きながら自問自答して悩んでしまった日記。
(注 : これは、福島第一原発事故への対応に関して報道・批評するテレビ等メディアに対しての私見。只単に『こう思った』という話です。)
震災から、早二週間。
未だに捜索に入れないエリアがあったり、
見ていても、聞いていても、もどかしい。
テレビをつければ心が痛む。
阪神の時に比べて、今回は明らかに進展が遅い。
被災地域の広さや、地震に加えての津波という特殊性や、原発の事や、
無理もないのだろう。
確かにもどかしい。イライラする面が多くある。
身の周りでも、メディアでも、皆それぞれに色々と言っているが、
が、
私は、
とにかく、何事も
批判だけする姿勢は好きではない。
身近な仕事に関してもそうだが、
ケチをつけるってのは、結果にたいして何も貢献しない。かえって悪くする。
『今後の為に』『教訓に』という理屈は正義だが、
目の前の切実な現実に対しては、間違ったアプローチだと思う。
もっと、協力的な姿勢、思いやりが無いと、そんなモン受け入れられる訳が無い。
辛い人も、救う為に頑張ってる人も、口だけでとやかく言うアンタと同じ人間。
そんなコト言ってる場合じゃないってのはわかるだろ。
外野から、散々好き放題に言うのは勝手だが、
一番切迫している最前線の人間達が
ロクに思慮もせず、いい加減にやってる訳が無い。命懸けじゃ。
そんなモン当たり前やろ。
てんぱった状況で、
ミスが起きたり、思いが及ばない事があったりするのは、誰しも経験があるはずだ。
トップが責任を負うのは当然だが、
とにかく全体を悪く批評するのは気にくわない。
現れた結果に対してケチをつけるのは誰にでも出来る。
でも、現れている現実を好転させる為に自分の責任で努力をする人間は殆どいない。
仕事上でも、いっつも思う。
他人事みたいに文句言ってないで、もっと自分も『当事者』として存在を示せ。
被災者支援にしても、
何が必要か?の基準は、当事者であることを忘れてはならないと思う。
阪神の時、
当時まだ若くて自由が利いた私も被災地へ赴いて色々としたが、
一番の教訓は、
自分が、自分の情報や思いで、良かれと思ってする事が、
必ずしも相手が望んでいる事とは合わないということ。
当時、
震災直後に現地へ入った時は、とにかく何をしても有難がられた。
感謝してもらえた。
でも、それに気を良くして、後日再び訪れた際には・・・
『ちぇっ。また○○か・・・』 的な反応で、
喜んでもらえないどころか、マイナスの態度をいただいたコトもあった。
当時、腹が立ったけど、
でも、
間違っているのはこちら。
明らかに。
こちらの思い上がり、独りよがりなんだ。
基準は相手。当事者。辛い人。
こっちが想像で、自分の思いで応援した『つもり』ではダメなんだ。
困っている人の心に寄り添わなければ。
状況はどんどん変わる。
被災者が何を求めているのか、望んでいるのか。
今、最も必要とされている支援は何か。
それを常に考えなくてはならない。
私も、
義援金を出させていただいた時点で、自分の中で納得してしまった部分がある。
でも、そうじゃなくて、
まだ、まだ、
辛い人々は沢山いて、本当に辛い。
ここまで書いたのが数日前。
な~んだ・・・。
結局私も批評家だ・・・。
少しだけ事態が落ち着いて、原発事故の長期化がはっきりしてきて、
どうも、政府の初期対応が・・・とか。色々見えてきた。
責任者は、責任があって当然!
あまんじて受けていただこう。
私はやはり、
辛い立場の方々と、現場で戦う方々に、最大限の心を送りたい。
今後何が出来るのか?
自分に何が出来るのか。
本当に、ほんとうに幸せな自分の日々に感謝。
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